ご挨拶
 ・「60周年を迎えて」
 ・「60年の歩み」

60年の歩み
 ・Vol.1 昭和25年〜昭和34年
 ・Vol.2 昭和35年〜昭和44年
 ・Vol.3 昭和45年〜昭和54年
 ・Vol.4 昭和55年〜平成元年
 ・Vol.5 平成2年〜平成11年
 ・Vol.6 平成12年〜平成21年
「龍建設とともに。」
 ・「龍建設と歩んだ39年間」
 ・「社会人、第一歩。龍建設」
 ・「建築の技術屋としての矜持」
 ・「変らぬは“やる気・元気・
   根気 そして情熱”」

 ・「名古屋一筋の企業人」
 ・「思い出は龍建設さんの
   手帳に」


「60周年記念イベント」
 ・「先人の碑法要」
 ・「記念式典、旅行」

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「龍建設とともに。」というテーマで、当社社員をはじめ、当社に関わりの深い方々にお話をお聞きします。
第一回目は、入社39年目 現在は執行役員 建築部部長である 阪 豊氏よりコメントをいただきました。

龍建設とともに。阪 豊
「龍建設と歩んだ39年間」
阪 豊
龍建設工業
 数々の工事、物件に携わってこられたと思いますが、
特に印象深い仕事、思い出は?
 思い出の仕事は、天橋立ホテル本館改修工事です。此の物件は、私が初めて積算から見積そして施工(予算管理も含めて)を行った現場です。
 当時若干27歳の若さであった私に全てを任せる会社としては、相当危惧していたのでは?と今更ながら思い出されます。
 正月明けの1月5日、2トン車に仮設資材を満載し着任した途端、現場所長(後の工務監督)から『誰の指示で仮設資材を持ち込んだのか!』ときつく
叱責されました。
 又、大浴場の男女仕切壁の仕上げ撤去中に倒壊し、阪急電鉄(当時はホテルは阪急傘下)の担当課長からペナルティー(仕上げのグレードアップを無償で)を課せられました。
 ちなみに、竣工後の後日談で新築当時から大浴場計画があり、仕切壁は解体しやすくする為、縦筋接続はしていなかった事を聞き、現場所長とおおいに嘆いたものでした。
 宿舎で朝目覚めたら、身体半分雪まみれ(宿舎はプレハブの為隙間だらけ)であったこと等々思い出は尽きません。

 しかし、最後の精算時、現場所長から『良く頑張ってくれた』とお褒めの言葉を戴き且つ、ほぼ満額の精算をして頂いたときのうれしさは忘れることが出来ません。着任から1年2ヶ月の工期でした。

龍建設工業 当社の社風について教えてください。
 入社当時からの変化は、時代に即した会社組織の改編により、組織として成長したということ、逆に変ってないことは家族を含めた全社員と会社は一体の精神(方針)であることです。
 それは、当社の社訓『一考、二究、三行』のもと、『良い仕事をすることで顧客の信頼を得る』為に、全社員一致団結した行動が出来る会社であることが、その基礎となっているのであります。

龍建設工業 影響を受けた先輩社員は?
 若くして他界した会社の先輩末広氏のアドバイス 『部下に接するとき部下の力量を把握し、部下の力量の少し上のレベルの指示を与える事』
 仲岡氏のアドバイス 『くよくよするな。常に明るく行動しろ、時が解決してくれる。』
 この2つの言葉は、何時も私の心の中に生きています。

龍建設工業 創業者、近藤会長についてのエピソードや
  自分しか知らないわが社の秘密をひとつ。
 創業者 近藤会長(当時の近藤社長)は、理不尽と解った事は、顧客が何を言おうと信念を曲げなかった人。屈しなかった人。そして、最後はキッチリ締めくくる人でした。その人柄は次のようなことによく現れています。

 某現場に於いて、当社に起因しないトラブルが発生し現場所長から間違った叱責を受け、過度な圧力とペナルティーを負わされそうになりました。事情を説明するも現場所長が聞き入れられなかったため、怒り心頭の社長は、直ちに現場を止め、暫くの間原因究明に努められました。
 顧客からは現場再開を矢の如く促され、このまま工期に間に合わなければ、今後の発注にも影響が出るとの話もありましたが、解決するまではと再開を固持されたのです。その間約2週間。(現場はかなりの突貫現場)。

 しかし、社長の凄かったことは、再開するや全社を挙げてバックアップし、工期全うに全力を投じ、竣工引渡しに余力を持って応じられたことです。常に信念の人でありました。

龍建設工業 今思うこと、感じること、
  そしてこれからの龍建設工業について。
 振り返って思うのは、若くして結婚したことかな・・・(親父の健康状態にごまかされた結果・・・)
女房には苦労の掛けっぱなしです。(今でも良く辛抱してくれていると感謝・感謝・・・)

 これからの龍建設、それは永遠の会社発展存続を目指す為の、たゆまぬ努力を惜しまず、その時代背景に沿った会社方針を全社員一丸となって突き進む団結力を持ち続ける会社です。

 入社当時の昭和45年ごろは、社員数も100名を越えていたようです。
 会社組織は大阪本社に技術部(積算課、設計課)、建築本部(建築課、工事課、資材課、事務課)、総務部(総務課、経理課)、京都と名古屋の営業所(それぞれ建築課、事務課)となっていました。大阪本社技術部は、技術部長を兼務されていた近藤社長(当時)以下新入社員の阪氏を含め13名のメンバーで業務をこなしていたとのことです。

 阪部長、どうもありがとうございました。
組織図

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